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中吉原宿と延宝8年の高潮

近ごろ、「東海道吉原宿を襲った津波の子細を知らない?」という内容のメールをよくいただきます。皆さん、やはり気にされているようす。

吉原宿は、海に近かったことから高波・高潮でたびたび被災し、前身の見付時代をふくめ3度移転しました。このうち延宝8年(1680)に宿場(中吉原宿)を壊滅させた津波――正しくは台風による高潮――による被災状況は、江戸中期に書かれた『田子のふるみち』に詳しく書かれています。これを機に、ここで紹介しておくことにいます。

『田子のふるみち』より抜粋 (地名など補足

中吉原(中吉原宿)に住居する事、既に四十二年にして、延宝八年(1680)庚申閏八月六日、津波大波にて田畑皆腐り、退転に及ぶ。その時の難儀、歳霜を降るといえどもいまだ忘れがたき。知れたる事を、又新たに書付ける事くどしといえども、能知れしはまれに残るといえど、年八十に及ぶ。又、若こうして委細知らざる人多し。庚申より今年享保十八(1733)癸丑迄凡そ五十四年一夢のごとし。これによりこの物語を筆に残す。

頃は延宝八年(1680)庚申八月六日の事、先前の八月末より晴天ながら、富士山笠雲けしからぬ。沖の立雲、日々黒くうねり出す。殊にその後、大亀田子の高山に登りて、子をなす。古より亀上がりて子をなす時は、遠近によりて波立ちありと言い伝え。総じて海上の潮日々に、やへ取り、これにより浜舟手共、兼て用心すといえ共、町の者は心付かず。

その十日前より、波立ち砂をまくって、波間のうして、湊を切る事あたわず。川々の水、日々増して広沼より水上に至るまで、水充満し空は晴天にして、いきれ甚だしく既に五日夜、天気替わって洪水車軸を流し、しのをつく。六日の暁より、にわかに、丑寅(北東)風、雨にまじえて吹きおこり、しばらくありて雷壱つ鳴りて、東風になつて、猶増さり、五つ時(午前8時ごろ)には、はや辰巳(南東)風になり屋根を吹き落とす。かべ、はめを吹き抜く。これを防がんとするに叶わず、五つ過ぎまでは南風なって、その時津波(台風による高潮)押し来るといえども八方暗んで分からず。只、黒水さかまき来て家体を押しひらき、久保通りは家押し切り、押し流し、昼の事なれば女、子供、老人なぞをば、はりに縄を掛け、これに取付き、又は、二階天棚なんどに取付かせ、命を助けるといえども、つぶされざるも壁、戸、はめ、屋根を打ち貫き、柱ばかりになりて、宝残らず流失して、肌ぎぬ一重にして、つぶれ家の屋根に取付き、風雨にうたれ、とほうを失う(途方に暮れる)

既に、その日の七つ時(午後4時ごろ)、風少し和らぎ、東風になりて、波も入廻りて平らかに、只一平の海となって、空漸々晴れ、屋根にて四方を見れば、橋向かい寺町依田橋の内に家もなく、人も見えず、只、悪王子の森(左富士神社の社叢)ばかり残りて、海上となるといえども、舟なければ、渡す事もなく、既にその日の暮方に、家々に引付け置きたる平船に乗りて、悪王子の森に入りて見れば、寺町の者共、平船弐艘百四、五拾(140~150)人乗りて、この森中に入りて助かる。その外寺町依田橋の内舟三艘これも悪王子の森へ入らんと舟を押し来るといえども、夜中にして、家開きて往還の中瀬となりて、舟道をへだつ。これにより、その舟共、依田橋の耕地へ吹流され、三条道あるいは大水門の堤に当たり、波打ち重なりてくつがえし、人皆流死す。

家々に乗りて根方へ着いて、命助かる者もあり。海辺者も吉原者も、皆財宝流され、原田前、比奈岸より根方村々(根方街道沿いの村々)の岸に流れ寄る。吉原宿(中吉原宿)によしみある者は、その行方を尋ねよしみ無き者は、とんじゃくなく流れ物を拾う。或いは戸棚、長持、諸道具を拾うと聞き伝う。又、山方の者も、これを聞きて流れ物、沈み物を拾う。皆持ち行くよいえども、下方の者は、それを見ながら、とんじゃくせず只、屋根の上に起き伏し、妻子をば在々のよしみ、親類へ連れ行きて、はごくむ。その外の者共は、近辺の在方より粥、その外食事等をあたえて救う。流死人の親類は舟を求め、死骸尋ね、山方の寺、砂山へ、舟に積み送りて埋める。中にも哀れなるは無縁の死骸、堤の藪へ懸かりて浮く。ふくれあるといえども、取り置くべき者もなく、殊に、むごき事あわれなり。

海辺の村方より流れ来たる牛馬、家々にかかって頭ばかり出して、動くといえども助べき様なき、まして水には死せずして、只、眼前に飢え死るを見る。又何よりうるさき事は、蛇、只潮に酔いて流れ来る。屑屋の屋根、あくたに乗りて流れ来たり、足手にまとう。

既に潮たゆる事七日、この内には往来の荷物、人馬を今井毘沙門山より、荒田嶋へ舟渡し。御手代衆在々の名主出て、これを賄う。湊は在辺残らず出て毎日掘り開け、ようやく七日目に、満水干し落ちして陸になるといえども、橋々落ちて通路ならず、舟にて往来を賄う。

町々家居は流れ残るばかりにて、往来の旅人足を留めるが、十三日になる。一日おいて十四日目の朝、にわかに、北より大風吹き出し、大波立つ。その時若き輩五人三人宛、立ち家の屋根に登りて、これを見るに、晴天にして波煙り空を棚引き、砂山を越ざる所なし。中々もってすくわれず、波三つ四つ打ち入るひとしく波枕、山のごとくなりてたちまち押し来たり、暫時に元の白海となる。北風程無くしずまって元より湊塞がざれば、潮引き返しその日の暮れ方には、又陸となり、その波にて富士塚地蔵の間の大平、一つの池となりて、広く深し。底は富士川のごみにて、潮たたえる事三年余、水たたえ中々この吉原に住居致す心はたえず。只、昼夜波の音に恐れ、さもなき小波にも女、子供逃げ出す。夜寝る事あたわず。只、飢扶持(救助米)三百俵に命つなぎ、又耕地の潮入り稲を取り上げ食す。潮俵の如く、干す共乾かず。たき物にも成り難し。

然れ共わらにて屋根、壁を囲い、皆帰り集まりて、住居するといえども往来の助成も無く、かせぐべく力もなく、冬過ぎ新玉の年に向かい、天和元年(1681)辛酉吉原へ所替(移転)、新玉の年に向かうといえども、元より諸役御年等も勤めず、まして借り物等の取懸けもなく、かざり神棚といわず、年頭の規式もせず、只、所替の事のみを思い、むなしく暮らす。

さて又、この節御代官は志州鳥羽の御用に付、彼の国へ御座ありて、御留守なれば、津波注進として志州へ上る。又、江戸へも役人共下り、流死の書付、吉原寺町にて七十四人、田嶋村にて廿弐(22)人、町々にて拾(10)人余、その無縁、旅人等はその数知れず。流死都て知れたる者、百廿(120)人余、牛馬五疋。この書付を以て御注進す。

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