スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

前富山称稔寺の本堂頭貫

頭貫

前富山称念寺(富士市中央町)の本堂頭貫。中央から左右端にかけて、2頭の竜を大胆に彫り込んでいます。彫りの範囲は広く、深く、立体感があって、なかなかに生き生きとしたすがた。

スポンサーサイト

前富山称稔寺の本堂木鼻

木鼻

称念寺(富士市中央町)の本堂木鼻。象と獅子が対となったタイプです。木鼻は、獏と獅子の組み合わせも多いですが、富士地区は象&獅子の方が優勢に感じます。

細面のため、正面でとらえるといささか力強さを欠きますが、いずれもサイズは大きく、存在感はけっこうなもの。個人的には、この角度が端正でお気に入り。

前富山称稔寺の本堂蟇股

蟇股
蟇股

前富山称念寺(富士市中央町)の本堂は、昭和8年再建の入母屋造りです。控えめな色合いで、落ち着いた雰囲気を感じさせる一方、そばに寄ってみると、向拝に多数の彫刻が施されており、ことのほかにぎやか。中でも蟇股は、精緻な透かし彫りが左から右までまんべんなく施され、じつに見ごたえがあります。

ただ、惜しいことに題材がわかりません。人の服装から中国故事のように思われますが、それがいかなるものか、わたしにはとんと……。

前富山称稔寺の山寺号標

山寺号標

称念寺の本堂前に、1対の古びた寺号標があります。造形はながく、か細く、高さは大人の上背をやや超えるくらい。風雨にさらされた石肌は暗くかげり、複数の釉薬をかけた瀬戸物のように、変化に富んだ色合い。まこと存在感のある標識です。

向って右手は「前富山」、左手には「稱念寺」と大きく刻まれています。建立は「正徳五乙未歳七月日」、施主は「鈴木治右衛門重俊」で、時の住職は「十七世蓮社行譽大信」。揮毫は「佐文山書」とありますから、江戸中期の書家、佐々木文山のようです。

称念寺は、正徳4年(1714)に中吉原から移転してきたと伝わりますから、この寺号標は移転の翌年に建立されたことになります。おそらくむかしは、境域入口――あるいは参道――にたち、多くの参詣人を迎えていたのでしょう。

前富山称稔寺の庚申山門

庚申山門

小潤井川に面した称念寺の門柱を抜けると、鉄筋コンクリート製の山門が建っています。門の上に八角円堂をのせた奇抜なレイアウトで、下層に小さな仁王さんが鎮座。「これは仁王門かな」と思いきや、扁額には「庚申山門」とあります。なんでも、上層に祀る青面金剛――庚申信仰の崇拝対象――が名称由来とのこと。

この青面金剛は、浮雲山庚申院(称念寺末)の本尊でした。聖徳太子作という、とほうもない伝承があります。庚申院は荒田島にあり、境内23間×13間、本堂4間半×4間半、庫裏4間半×6間の規模(『行人塚』)だったそうですが、明治5年に称念寺と合併し、廃寺となりました。以降青面金剛は、称念寺境内で祀られ、平成3年に山門が落慶すると、その上層に居を移しました。

浮雲山庚申院の沿革は、詳しく知りません。ただ江戸中期に記された『田子のふるみち』に吉原宿(中吉原時代)の町割がくわしく紹介されており、その中に、

「(西町に)松一本ありて、その元に元吉原、木元権現を移す(分祀し、中央町木元神社を創建)。壱つのほこらあり、この添いに中川原の野道ありて庚申堂あり」

とあります。おそらく、庚申堂=庚申院なのでしょう。

本尊の青面金剛について、江戸後期の地誌『駿河記』『駿河志料』を引くと、

「傳云、この靈像むかし海上より出現、利生多きによつて詣づる者多し。別而漁獵に應驗あり。漁有り鮮魚を以て賽す。祭神は猿田彦命なるべし」(『駿河記』)

「此神像は海中出現にて、應現いちじるきに依て、詣ずるもの多く、殊に海の幸に驗ありとて、漁者海魚を備へ報賽とす」(『駿河志料』)

とくわしく所載。「漁業に霊験あらたか」と、ひろく知られた仏像だったようです。

なお荒田島の正宝稲荷神社は、主祭神である宇迦之御魂神のほかに、青面金剛、弁財天を配祀しています。この青面金剛は、庚申院の廃寺を惜しんだ荒田島の人々があらたに像を作り、同じく廃寺となった誓覚寺(真言宗/今泉東泉院末)の本尊・弁財天とともに、正宝稲荷神社に祀った――という説があります。

前富山 称稔寺

記事本文へ
名称称念寺しょうねんじ [山院号:前富山宝樹院ぜんふさんほうじゅいん
所在静岡県富士市中央町3-2-11
宗派浄土宗鎮西派本尊阿弥陀如来
創建伝:永正4年(1507)開基欣察上人
開山称念上人本寺京都知恩院末
寺紋月影杏葉鎮守庚申堂
交通岳南鉄道吉原本町駅より徒歩13分 駐車場有

青陽山陽徳寺の積善供養塔

積善供養塔

陽徳寺(富士市吉原)にある自然石型の塔。正面に「積善供養塔」と大きく、ふかく刻まれています。建立は寛政5年(1793)10月29日、建立者は「吉原驛 善事講中」「中里邑講中拾三人」「鍛治屋瀬古講中三拾三人」の人々。

積善供養塔について、わたしは詳しく知りません。この塔が唯一の目撃例。一般的に、「積善」は善行を積むことをいい、「供養」は仏などに供物をささげること。まぁ、おそらくそのままの意味なのでしょう。建立した講中は、吉原から今泉(鍛治屋瀬古)、中里まで広範囲に及んでいますから、かなり流行った信仰なのかもしれません。

青陽山陽徳寺の名号塔

名号塔

陽徳寺(富士市吉原)にある自然石型の名号塔です。

建立は江戸後期の文政6年(1823)4月。おもてに力強い筆で「南無阿弥陀佛」と刻み、ほかに「東本町」「徳本講中」の銘があります。江戸時代、東海道吉原宿の東寄り町内に徳本講(念仏講)があり、その講の人々によって建立されたようです。

富士地区は日蓮宗強勢のため、念仏信仰は控えめ。名号塔の数も、他地区と比すると少ないように感じます。昔の念仏信仰をしのばせる貴重な塔ですね。

(→ 石造物いろいろ/名号塔)

青陽山陽徳寺の庚申塔

庚申塔

陽徳寺(富士市吉原)境内の文字庚申塔。高さ約132cm、幅約41cmの笠付き角柱型で、正面中央に「庚申塔」の刻字。その下には、やや風化した三猿が仲よく並んでいます。とてもすがたのいい塔ながら、同じような色合いの建物を背にし、また季節によっては植栽に隠れてしまい、あまり目立ちません。

昔から境内にあったのか、あるいは路傍から移されたのかは判然とせず。いずれにせよ、吉原も庚申信仰が盛んであったことを大いにしのばせます。

(→ 石造物いろいろ/庚申塔)

青陽山陽徳寺の大絵曼荼羅

曼荼羅

陽徳寺(富士市吉原)で毎年7月23・24日、縁日が開かれます。本尊「身代わり地蔵」のほか、閻魔王奪衣婆、大絵曼荼羅が開帳されます。

大絵曼荼羅は、地獄・極楽のようすを表した掛け軸です。総体的に地獄の恐ろしさに焦点があてられており、鬼によって数々の責め苦――串刺し、八つ裂き、血の池、釜ゆで、など――をうけている亡者が、生々しく描写されています。毎年、熱心に手を合わせる人や、おどろおどろしい描写に泣きだす子どもの姿が見られます。

地獄
 

地獄は、悪業をつんだ者が堕ちる地下世界。日本の仏教においては、死後、亡者は三途の川をわたり、閻魔王など十王の審判を受けるとされます。そのさい、最も罪の重い者たちは地獄に堕ち、ひどく惨たらしい責め苦を受けるといわれます。

地獄には、「八熱地獄」や「八寒地獄」などがあるとされ、それぞれ焦熱地獄や叫喚地獄、訶鉢特摩地獄などで構成。生前犯した罪の内容によって、堕ちる地獄が決まるそうです。名前だけでも、げに恐ろしげ…。

なお陽徳寺の本尊は地蔵菩薩です。

地蔵菩薩は、地獄の衆を救済する仏であり、地獄の主・閻魔王の本地仏ともいわれます。陽徳寺に閻魔堂(閻魔王奪衣婆を祀る)があるのも、大絵曼荼羅が開帳されるのも、地蔵菩薩との由縁からなのでしょう。

つまり、人が亡くなる → 三途の川のほとりで奪衣婆に衣服をはぎ取られえる(奪衣婆) → 閻魔王の審判を受ける(閻魔王) → 悪業をつんだ人は地獄に堕ちる(大絵曼荼羅) →地蔵菩薩が救ってくださる(地蔵菩薩)――といった流れ。

まずは地獄に堕ちぬよう、善業をつみたいものです。

青陽山陽徳寺の奪衣婆

地蔵尊

陽徳寺(富士市吉原)の境内に閻魔堂があり、毎年7月23・24日の縁日に開戸されます。日ごろ不在の閻魔王がその姿を現し、隣には奪衣婆(だつえば)も随従。お堂前では施餓鬼供養も行われます。

奪衣婆は、三途の川のほとりで亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。一説に、閻魔王の妻ともいわれます。三途の川のほとりに衣領樹という大木があり、奪衣婆が剥ぎ取った亡者の衣服は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられ、枝のしなり具合――衣の重さ(生前の業)――によって罪の軽量が判定されるそうです。

このように、おっかないイメージが先行する奪衣婆ですが、その一方で異なる面ものぞかせます。一説に衣服を剥ぎ取る行為は、亡者の罪を引き受けるため、といわれますし、民間信仰では姥神や病気平癒・咳止めの信仰対象となり、とくに子どもの健康に関することで霊験あらたか。非常にやさしい一面も持ち合わせています。

陽徳寺の奪衣婆は、ごく小ぶりな座像です。写真だと分かりづらいですが、白髪頭で、青い衣をまとっています。顔に深いしわを刻み、目をぎろりと開き、かなりおっかない形相。昔話にでてくる、「がんこなお婆さん」といった雰囲気ですね。

青陽山陽徳寺の閻魔王

閻魔王
閻魔堂
 

陽徳寺(富士市吉原)の境内に、閻魔王をまつる閻魔堂があります。1坪足らずのささやかなお堂です。閻魔王は日ごろ不在ですが、毎年7月23・24日の縁日に、奪衣婆をひきつれて出現。憤怒の相でどっかりと座し、参詣者に畏敬の念を抱かせます。

閻魔は、サンスクリット語「ヤマ」の音写で、ヤマはインドの聖典『リグ・ヴェーダ』に登場する古い神です。世界で最初に生まれた人間であり、はじめて死者となったことから、死者世界の支配者になったとされます。そしていつしか、死者を裁く審判官と考えられるようになりました。

ヤマは仏教とともに中国へ伝わり、土着信仰である道教と習合。道教では、地獄に死者の罪を審判する10人の王がいるという「十王信仰」があり、ヤマはそのひとり閻魔王になりました。こんにち、閻魔王が冠・道服を着けて笏をもつのは、道教の影響とされます。やがて十王信仰は日本にも伝播。日本では10人の王おのおのに本地仏が配され、閻魔王の本地は、地獄の救済者・地蔵菩薩と考えられました。

陽徳寺に閻魔王が祀られるようになった理由は分かりません。ただ、陽徳寺の本尊は地蔵菩薩です。閻魔王はおそらく、地蔵菩薩との由縁から祀られたのでしょう。

青陽山陽徳寺の身代わり地蔵尊

地蔵尊
地蔵尊
 

青陽山陽徳寺(富士市吉原)の本尊は、右手に錫杖、左手に宝珠を持った等身大の木造地蔵菩薩立像。「身代わり地蔵尊」として近郷近在に名高い仏像です。毎年7月23・24日の縁日にご開帳されます。

このお地蔵さんは、伝承や白隠著『荊叢毒蕊』いわく、駿東郡青野村(現沼津市)にあった光明庵が祀っていました。それが中古、大水災で寺ごと流され、浮島沼を経由し元吉原に流れついたところ、地元住民がすくいあげて陽徳寺の本尊とした、と伝えられています。以上のことから、別称は「青野地蔵尊」。

また俗称である「身代わり地蔵尊」については、次のように伝えられます。

むかし界隈で眼病が流行したさい、人々はこのお地蔵さんに願掛けをしました。すると病状はたちどころに快方へむかい、その代わりお地蔵さんの目は目ヤニでいっぱいに――。以来、病気回復などに霊験あらたかと尊信されるようになりました。

陽徳寺は、駿河一国百地蔵尊霊場91番、駿河国地蔵尊霊場43番の各札所です。御詠歌は、駿河一国百地蔵尊霊場「思うこと 頼みをかけよ慈悲菩薩 我が身に代えて救いたもうぞ」、駿河国地蔵尊霊場「もへ出しを 大ののくさの 露の上へに 地ぞふのひかり 見ゑぞかがやく」。

青陽山 陽徳寺

記事本文へ
名称陽徳寺ようとくじ [山号:青陽山せいようさん
所在静岡県富士市吉原1丁目4-3
宗派臨済宗妙心派本尊地蔵菩薩
創建不詳開基不詳
開山不詳本寺今泉法雲寺
寺紋丸に左万字(幕、提灯)鎮守閻魔堂
備考駿河一国百地蔵尊霊場91番札所、駿河国地蔵尊霊場43番札所
交通岳南鉄道吉原本町駅より徒歩1分 駐車場無

吉原天神社 鳥居竣工式

記事本文へ

天神社(富士市吉原)で11日、鳥居竣工式が行われました。朝からあいにくの空模様でしたが、幸いにも雨は式開始前にあがり、いい雰囲気での式典となりました。

NEXT≫
ブログ内検索
エントリーリスト
表示中のエントリー
→次
最新コメント
ブックマーク
ブロとも申請フォーム
Twitterもやっています

Twitter < > Reload

参加中
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へにほんブログ村 地域生活ブログ 静岡情報へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。